目次
中江藤樹は生真面目?!
祖父・吉長が死去したため、中江藤樹は15歳で家督を継ぎ、京都から来た僧に儒学を学んだことをきっかけに、「孝」の大切さに接しました。
孝とは、子供が自身の親を敬い支えるべしという考え方です。
18歳の時、父親の訃報に接すると、激しく憔悴して、自ら葬りたいと願ったといわれます。
やがて朱子学と出会った藤樹は、武士らしくあろうと努め、学問にも励みました。
しかし真面目であったためか、武士らしくあろうとする余り、自分に対しても他人に対しても厳しく頑なになり、やがて精神的に追い詰められていきます。
ある日、船に乗った藤樹は、船内で喘息の発作を起こして倒れます。
藤樹の喘息は神経性のものであったようで、彼の心身は武士としての生活を拒んでいました。

中江藤樹の私塾「藤樹書院」を設立
休養のため故郷に戻ることになり、ようやく心身が落ち着くと、自分の家をリフォームして私塾を開きました。


藤の木が家の裏にあったため「藤樹書院」と呼ばれました。

30歳で結婚した頃には塾生も増えてきました。
「陽明学の祖」と呼ばれ、陽明学を日本に広める
塾では儒学を教えていましたが、特に『王陽明全集』に接して以降、藤樹は以前の自分に課した形式主義的な朱子学ではなく、人間には本来良知が具わると説く、陽明学を教えるようになります。
陽明学とは、中国の明のときに、王陽明がおこした学問です。

藤樹は陽明学の「知行合一」を唱えました。
「知行合一」とは、知ることと行うことは分離できないとし、いくらよいことを習っても実際に実践し行動しないと身に付いたとは言えないということです。
著書「翁問答」

中江藤樹は、幼少期からの教育を重視して父母の役割に期待しました。
『翁問答』では、子育てについて具体的なたとえ話をまじえながら、庶民にもわかりやすく書いてあります。
老翁と弟子の問答を傍で聞いて作ったため翁問答となりました。
尊称「近江聖人」と呼ばれ尊敬される
中江藤樹は、望む者には医学も教えましたが、その中に大野了佐がいます。
了佐は藤樹の友人の息子でしたが、やや知的障害がありました。
しかし本人は医者になることを望んでおり、藤樹もそれならばと入門を許して漢文の医学書を読ませますが、冒頭の数フレーズを覚えるのに半日以上かかり、しかも食事を済ませるとすべて忘れている有様でした。
藤樹も教えるのに精魂尽き果てる状態になりますが、けなげに毎日通ってくる了佐を見捨てることはできず、了佐のために平易なテキストを作り直して、根気よく教え続けて、ついに了佐を一人前の医者として独立させるのです。
単に聖人の道を教えるのではなく、こうした弟子の育成に一緒になって全力を尽くす人間性を含めて、藤樹は「近江聖人」と呼ばれることになりました。
「近江聖人」とは、家が近江国(琵琶湖付近)にあり、聖人は名前ではなく敬称です。
現在では、日本における陽明学の祖とされます。

過去問
保育士試験 平成31年(2019年)前期 教育原理 問25
次の【Ⅰ群】の記述と、【Ⅱ群】の人名を結びつけた場合の正しい組み合わせを一つ選びなさい。
【Ⅰ群】
A 子育てについて具体的なたとえ話をまじえながら、庶民にもわかりやすく説いた。また、「知行合一説」を唱え、陽明学の普及に努めた。
- 中江藤樹
【Ⅱ群】
ア 貝原益軒
イ 中江藤樹
ウ 空海
エ 聖徳太子
オ 大原幽学
保育士試験 平成25年(2013年) 教育原理 問25
次の【I群】の業績と【II群】の人物とを結びつけた場合の正しい組み合わせを一つ選びなさい。
【I群】
B 「知行合一」を唱え、わが国における陽明学の祖とされる。主著『翁問答』では、孝を道徳の根本とし、幼少期からの教育の徳教を重視するとともに、父母の役割に期待した。多くの人々に尊敬され、「近江聖人」とも言われた。
【II群】
ア 聖徳太子
イ 空海
ウ 林羅山
エ 中江藤樹
オ 貝原益軒
コメントを残す