目次
髙木憲次の生い立ち
大正時代当時は、肢体不自由児は「こじきになるしかない」といわれていました。
高木憲次は、ある日の小学校の遠足で、肢体不自由の孤児院の子どもと会い、非常に心を動かされたことが医学を志すきっかけとなりました。

また、高木家の人力車引き屋が「手足不自由のある子どもが寄ってきたのを汚いのでおっぱらった話」をしたところ、髙木憲次の父は「孤児院は汚いかもしれないが、大変立派な仕事で、かわいそうな子どもを助けてるのだから、汚いと差別してはいけない。」と叱り、「自分もそうした子どもたちを見てやりたい。」と言っているのを憲次は感心して見ていました。
写真機からレントゲン研究へ
高木の高校時代には、商売人が使うものと同じ写真機を父から買ってもらい、大変喜んでいました。

高木憲次が愛好したカメラの技術は、後の高木憲次の功績となったレントゲン研究に大きく影響しました。
療育の原点
また、その写真機を担いで富士山を回ったのですが、その際に3、4人の肢体不自由児の姿を見かけました。
この子供たちは富士育児院に収容されていて、縄を編んだり、わらじを作ったりして生活していました。
これが肢体不自由児の療育(ここではリハビリのことをいいます。)について考えるきっかけとなりました。
障害児は家の中に隠されていた?
高木は、東京帝国大学医科大学を卒業し、整形外科医局に入りました。

当時、深く肢体不自由者と接して実態を知りたいと考え、東京のスラム街で肢体不自由者の実態調査を始めました。
その結果、肢体不自由児は家の中に隠されて学校に通っていないことがわかりました。
そして、肢体不自由児には教育が必要ですが、たとえ治療ができたとしても教育の機会を失うし、教育を受けようとすれば治療の機会を失うとしました。
治療とともに教育を受けることができる「教療所」が必要だと主張したのです。
東京市を始め内務省や文部省に対して、肢体不自由児の実情を話して、教療所の設置を懇請しました。
また、ドイツで肢体不自由児施設を見聞し、治療とともに教育を行い、職業能力を身につけることによって社会に有用な人材になれるとし、わが国にもこのような施設が必要であると主張しました。
戦中に念願の整肢療護園設立!

戦時体制へ進む情勢の中で、民間の力を結集して、建設運動を進めた結果、ようやく日本初の公立肢体不自由児学校・光明学校、日本初の肢体不自由児施設である整肢療護園を設立しました。

現在の整肢療護園は、医療型障害児入所施設です。

過去問
保育士試験 平成27年(2015年) 児童家庭福祉 問41
次の組み合わせのうち、「用語」とそれに関わりの深い「人物」として正しい組み合わせを一つ選びなさい。
○ 2. 整肢療護園 ― 高木 憲次

はじめまして( ^-^)4月に4度目の試験を受験します(´`:)社会福祉と、ニコイチが、前回あと1問でダメでした(っ´ω`c)あと1週間ですが、こちらのブログがとても分かりやすいので今知れてよかったです!あと1週間、読ませていただきます!
あと1週間ですね!頑張って下さい!来週は毎日投稿します。こちらも頑張ります。
今日ブログを知れたことを嬉しく思います(`・ω・´)よろしくお願い致します( ^-^)
わかりやすいです。早く知っていたら( ^-^)
励みになります!ありがとうございます!