
森有礼の青年時代の逸話で、ある講義で「緊急の用務で早駕籠(はやかご)でも間に合わぬときはどうするか」という問題が講師からだされました。
年長者たちが多く集まっていたにも関わらず前に進み出て、
「そんな事わけないです。馬に乗って行って、その馬をチクチク針で刺せば、馬が痛がって苦しまぎれに駆けるでしょう。さらに刺せばもっと早く駆ける。そうすればどれほど早くいけるかわかりません」
と答えて一同を笑わせたそうです。
その後、英語を学んだことをきっかけに、外国にわたり外交官として大いに活躍するようになります。
欧米の価値観を学び、新しいものを日本に積極的に取り入れようとします。
その頃の日本は、学制が発布され、数年間の間に2万校の小学校が整備されました。
しかし当初は義務教育とは名ばかりで、学費も家庭が負担し、学校の建設費用も地元負担だったため、学制反対一揆などが起きていました。
森は結婚をします。
森の自宅に200余名が集まり、福沢諭吉が証人となりました。
結婚式は相当にハイカラなものだったらしく、新聞でも揶揄されました。
その頃の森有礼は、演説は英語でなければならないと言い張っていましたが、福沢が自ら日本語で演説を実演して、納得させたりもしています。
福沢は『学問のすすめ』に「日本の言語は不便利にして、文章も演説も出来ぬゆえ、英語を使い、英語を用るなぞと、取るにも足らぬ馬鹿をいう者あり」という部分がありますが、この「取るにも足らぬ馬鹿」というのは森のことです。
有能でフットワークが軽いが、持論を言い出したら止まらない森を10歳ほど年上の福沢が「たわけ者!」と怒鳴っているようです。
初代文部大臣
その後、森有礼は初代文部大 臣となりました。

諸学校令
森有礼が文部大臣となった次の年には諸学校令をだします。


ある日、森有礼は伊勢神宮に参詣しました。
鳥居をくぐって内宮の前に進むと、神官が突然に御門でうずくまってしまいます。
そこで森はそのまま前に進むが、そこでその神官に押し止められ、引き下がったといいます。
このことは土足で昇殿した、ステッキで御帳を揚げて内部を覗いたなどというストーリーと共に、「とある大臣」の不敬行為として新聞で報道されます。
翌年、大日本帝国憲法発布の日に、森は自宅で大礼服に着替え待っていました。
その時に羽織袴の正装をした若い男がやってきていきなり森を刺します。
森の傷は腸に達するほどの深手であり、憲法発布の日で皆宮中に召されていたという不運も重なり、手当は遅れ、森はそのまま亡くなってしまいます。
福沢諭吉は、「暗殺者も森のことをよく知っていれば、森の誠実さに触れることによって、殺害するどころか友人になっただろう」とのべたとのことです。

過去問
令和4年 教育原理 問7
次の文は、日本における明治期の教育についての記述である。( A )・( B )にあては まる語句の正しい組み合わせを一つ選びなさい。
明治維新後、近代教育制度が確立されていった。1871(明治4)年に文部省が創設され、1872(明 治5)年には学区制度と単線型の学校制度を構想した( A 学制 )が公布された。その後、初代文部大 臣となった( B 森有礼 )は、国民教育制度の確立に力を注ぎ、特に初等教育の普及と教員養成の充実を 図った。
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